こんにちは。
ちょっと今日は軽い内容。
先日、ネットニュースでミイクシィの新規登録者数が通常の8倍に急増しているという記事を見かけた。
要因の一つしてはツイッターのサービス形式が不透明だということがあるらしい。そして、昨今のSNSほど、情報が雪崩れ込まず、若者の利用者にとっては心地よいものであると記事では述べられている。
ここで、思い起こされるのは栗本薫が中島梓の名で上梓した『コミュニケーション不全症候群』の内容である。
中島氏は冒頭一番に我々は皆「コミュニケーション不全症候群」だという。コミュニケーション不全症候群とは何かについて、以下のようにまとめる。
1、他人のことが考えられない。想像力の欠如。
2、知合いになるとそれがまったく変ってしまう。つまり自分の視野に入ってくる人間しか「人間」として認められない。
3、さまざまな不適応の形があるが、基本的にそれはすべて人間関係に対する過剰適応ないし適応不能、つまり岸田秀のいうところの対人知覚障害として発現する。
(p29)
彼女はこの要因について、アグネスチャン論争を引き合いに出しながら、「他の存在様式に対する想像力の欠如の氾濫」だとと述べている。(p19)そして、「現代社会、私たちの世界そのものが、すでにコミュニケーション不全症候群を内包しているのだ、といっても良いだろう。というか、コミュニケーション不全症候群こそが現代なのである」として述べている。(p22)さらに、もう一つ、コミュニケーション不全症候群の原因について、現代社会の「過密」こそが要因であると述べている。つまり、彼女は、私たちは動物として明らかなに不自然な環境を自然だとみなすヒューマニズムについて、それが異常なのではなく、「適応のための不適応だ」という立場をとっている。(p28)
この本は初版が1991年であるが、彼女の分析はおそらく大半の人々が納得できるだろう。彼女の論が理解できてしまうのは結局、1990年代後半から2020年代にかけての現代人像の変化が緩やかなのだからだと思う。つまり、読者全員に心あたりがあるのだ。
現代人は、この中島氏のいうところの「過密」度合いについて、そのグラデーションを自身の手で調整したり、他者から調整されたりすることで平静を保っているのかもしれない。きっと私がこのブログを始めたのも自らの過密度合いを調整したかったからだろう。
軽い内容にするつもりが、いつもの感じになってしまった笑。
最後まで読んでいただきありがとうございます。