探究人間のいろいろ。

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不安の世代

大学の学部時代に履修した小学校英語教育研究という授業の中でロジェ・カイヨワの遊びの理論について初めて知った。

en.wikipedia.org

 

現代の子どもたちは本当の意味で遊んでいるのだろうか。

(ここで言う子どもたちは主に12歳ぐらいまでの人々を指す。)

 

 

そんな中で最近手に取ったのが、ジョナサン・ハイト著の『不安の世代』という本だ。

個人的に最近読んだ教育書の中で一番面白かった。

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この本では、翻訳版のサブタイトルにある通り、スマホおよびSNSが子ども(15歳まで)の精神状態に悪影響を及ばすのかについて書かれている。

 

この本における著者の主張はいったってシンプルである。

 

それは、16歳まではスマートフォンを子供に持たせるべきではない、およびSNSの使用をさせないということ。学校内ではスマートフォンを使用禁止とすること。子どもに大人の監視なしの遊びをさせるべきだということ。

 

著者は2010年代から急激にアメリカの10代の精神疾患発病率が上昇しており、SNSの普及に伴って可能性があるということをデータと共に示している。また、10代は過度なスマートフォン(SNS)使用により、女子においては自傷行為や自殺、性犯罪に巻きこまれるリスクといった問題が増加しているという。男子においてはポルノ依存や人間関係の希薄化による抑うつ状態、無力感を抱える人々が急激に増加しているという。

 

ページ数は多いが、本の構成が非常にロジカルで読みやすい。前書きには本書のアブストラクトが書かれている。そして各章には最後にまとめが書かれている。また、著者のウェブサイトで補足の資料やデータの誤りについての修正も提示されている。

 

教育関係者、中学生ぐらいまでの子どもを抱える親たちにはぜひ一度手に取っていただきたい本である。

 

学校や会社では新たな生活が始まっている。

私は「教育」というものに人生をかけて向き合っている。

カミュ文学あるいはフランス文学における試論③(最初の人間ー小学校ーから読み解くカミュのよりどころとしての父親像)

相変わらず、自分の研究とは全く関係のないカミュ作品をゆったりと読み続けている。

これまでに「時間性について」

tankyuningen.hatenablog.com

 

そして、「文学の中に落とし込まれた哲学」について記事を書いた。

tankyuningen.hatenablog.com

 

今回は、『最初の人間』の第一部、父親の探索における6乙小学校からカミュが求めた父親像について考えていきたい。

まず、作品の背景に簡単に触れる。

この『最初の人間』は1950年代からカミュが構想していた半自伝的小説である。カミュが死亡した交通事故の際に吹き飛んだ鞄の中にこの原稿が入っていたという。ただ、中身としては、句読点があまりないような長い一文がつらつらと書かれていたらしい。

カミュの死後、十数年ほど経ってから、カミュの娘の協力により出版されることとなった。

 

 

役者あとがきにも書かれているがこの本の特徴は何と言っても、この作品は未完であるということである。もっと言うと、文学作品に昇華しきれていないカミュの赤裸々な人生について読み解くことができる。これこそが、この作品の魅力だろう。

 

私がこの作品で注目したいのは、カミュの父親像(あるいは理想の父親像)についてである。

作品冒頭にある「二輪馬車の上で」というチャプターでは、カミュの出生について(おそらく)フィクションが織り交ぜられながら描かれている。

実際のところ、カミュの父親はアルジェリア系の移住植民者であり、第一次世界大戦に出征し、戦士している。

 

その後のチャプターでは、貧しいながらも地中海の気候でモヤモヤとのびのびと過ごす幼少期について淡々と描写されている。

私はカミュが祖母と母親、兄弟との暮らしの中で、「父親の存在」に渇望していたのではないかと非常に思わざるを得ない。

 

そして、理想の父親像を「6乙 小学校」における、ベルナール氏に見出しているように思う。実際のところでも、カミュが高等教育を受けられるように祖母に説得したのは小学校時代の教師である。

ベルナール氏から愛のある厳しさ、本気で自分の将来を考えてくれたこと、高等機関への入学試験に合格して、ベルナール氏を越えて学びをしていくことの喪失感がこのチャプターの中に色濃く描かれていると思う。

 

カミュが理想の父親像として、欲していたものとはいったい何であろうか。

 

まず、外側(外見)についていえば、がっしりとしていることがあげられるだろう。

 

続いて、表出される言葉については、強い口調と間違った言動に対する徹底的な指導(物理的)であろう。

 

最後に、自分のことを気にかけてくれているという愛情であろう。

 

以上、簡潔に3つ述べたが、これは『最初の人間』を読めば至るところがこの3つの像が浮かびあがる。気になった人はぜひ読んでみてほしい。

ーーーー

余談

とまあ、なぜかこの夏からカミュに取りつかれてひたすらに読んでいる。

私は、別に読書や文学が好きなわけではないと思う。もっというと小説を読んでいての没入感とかそういうのをあまり感じたことはない。

 

まずは、私は学びが好きなのであろう。本を読むということは、あくまで私にとって学びの手段の一つに過ぎない。

次に、作者、著者にたいしての興味から文学や哲学書などの作品を読むのだと思う。または、そのテキストが書かれた時代観を紐解くために読むのだと思う。

 

少し俯瞰して、人に思いを馳せながら、対話しながら、読書をしていく。そんな読み方があっても良いのかもしれない。

人文系大学院の面接試験についての話

こんにちは。

 

また、前回の記事から時間が経ってしまった。

ブログ以外で記事を書く機会が多くあり、ブログで文章を書かずにもうそろそろ1年が終わろうとしてしまっている。

 

今回は、本や思想についての話ではなく、先日に受験した人文系大学院での面接(口頭試問)についてのことを書こうと思う。これから受験する人の参考になれば幸いだ。

 

さっそく本題に入る。

 

私が受験した大学院では、筆記試験の後に一人20分ほどの面接試験があった。大きな会議室に呼ばれ、中には学科の教授が8人(全員日本人)ほどいた。研究テーマについて、自分で書くのもなんだが、非常に複雑なテーマであった。

 

面接はまず、学科長から、

〇大学院入学後にしたい研究のテーマ

〇どうして、この大学で研究をしたいのか

について簡潔に2分ほどで説明するように言われた。

 

私は、研究のテーマについてのみ伝え、詳細はこの後に気になることを質問されたいと答えた。加えて、学部時代におこなった卒業研究で、十分に研究成果の立証や先行研究の理解が浅く、自分のテーマについてもっと探究をしたいと答えた。

 

その後は、残りの8人の教授陣がランダムに質問をしていくという形式だった。

次に質問をしたのは、事前にオンラインで研究室訪問をした教授だった。

 

その教授からは

〇なぜこのテーマについて、今研究しようと思っているのか

〇このテーマについて先行研究で明らかになっていることといないことは何か

について日本語で質問がきた。

上記の質問については、研究計画書に書いた内容を伝えた。

 

さらに、

〇今の職歴

〇大学院に進学した場合に仕事はどうするのか

〇大学院進学について家族はどのように考えているのか

〇大学院に進学した場合、住まいはどうするのか

について英語で質問された。

これは、想定外の質問であったが、英会話のような感覚で率直に話をした。

 

次に、別の教授から

〇研究手法

〇研究(実験結果)の予測

〇研究の将来性(発展性)

について英語で質問をされた。

この質問の中では、実験の変数別による結果の予測、想定を何とか英語で伝えた。しかし、伝わり切ったかどうかはよくわからなかった。研究の将来性については一番伝えたいことではあったためスムーズに伝えることができた。

 

次に別の教授から

〇実験被験者は別の設定のほうが良いのではないか

について日本語で質問された。

これについては、研究倫理の観点から研究計画書に書いた被験者に設定したという旨を伝えた。

 

最後に学科長から、

〇具体的な測定方法について例を挙げてください

と日本語で質問された。

 

と、こういった感じであっという間に20分という時間が過ぎた。結果は何とか合格できたが、これからが本番だ。終わってみて気づいたのだが、これは受験した大学院の修士論文や博士論文の予備審査会の形式と非常に類似していた。何はともあれ、普段はあまり経験できない、非常に刺激的な経験であった。

カミュ文学あるいはフランス文学における試論②(文学の中に落とし込まれた哲学)

こんにちは。

前回の続きを書く。

 

今回は、カミュの文学について掘り下げていきたい。

 

なぜか、2か月ほど前からアルベールカミュの文学について読んでみたくなり、書店で手に入れるだけの彼の作品を手に入れて読んでいる。

 

カミュという人物についての詳細はこちらを参照されたい。ざっくりといえば、アルジェリアの入植者の子孫として生まれたカミュは、幼いころに父親を戦争でなくし、聴覚障がいのある母と厳格な祖母の家で育った。祖母のカミュに対する教育および躾は少々厳しいようであった。彼は、貧しい家庭で生まれ育ったが、かなり賢く運動もできた。また、彼が育った土地は地中海の自然が豊かな場所であった。その才能を小学校教師にかわれ、進学し大学では哲学を専攻する。しかしこの時期にカミュは当時不治の病であった結核に感染し常に「死」と隣合わせの生活をおくる。大学卒業後には、新聞社に就職し記者として働くことになるが、処女作「異邦人」で注目され、のちに職業作家となる。哲学者ジョンポールサルトルとの親交と絶交などがある。最期には、不慮の事故により、47歳でこの世を去っている。

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カミュは文学者というよりも哲学者という色合いが強いという印象が率直なところだ。

カミュの文学を読む上でどうしても、カミュの生い立ちというものが作品に色濃くでているというところも印象的である。

 

カミュの文学を私なりに一言で表すとすれば「文学の中に落としこまれた哲学」といったところであろうか。

今まで、私は哲学というものが体系だった一冊あるいは論文としてまとめられるものであるという考えがあった。しかし、カミュを哲学者として捉えた場合に見いだされるのは、カミュの思考が作品の登場人物のやり取りの中から引き出されているという点であろう。

 

カミュの哲学は「不条理の哲学」と表されることが多い。これは、いわば宗教や論理を超えたどうにもならないことに対して我々がどのように向き合うべきかということについて投げかけてくる。

 

カミュ自身もまた、不条理と常に隣り合わせの生涯を送った。この不条理とどのように向き合うかという命題はカミュ自身の人生観を反映しているテーマといえる。

 

異邦人の中では、個人として不条理に対して向き合う主人公の様子が描写されている。主人公は母の死や自らの行動に対して主人公なりに一貫性をもって行動している。内容自体は淡々と進み、正直意味が取りづらい部分も多い作品ではあるが不条理に個人としてどのように向き合うのかという方向性が打ち出されている。

 

 

 

また、ペストにおいては、未曽有の疫病という天災の中で個人を越えて社会集団が不条理と出会った際に想定される事態とその乗り越え方についてヒントを示している。主人公とその周りの人々との関係性や考え方の変化に注目して読むことで新たな発見が生まれてくるであろう。

 

 

シーシュポスの神話については、まだ私自身も読んでいる途中ではあるが、不条理についての体系だった分析がなされ、最後には物語という形で不条理への向き合い方について描かれている。

 

 

どうにもならないぐらい、どうにもならない日々に対して、「死」ではない別の方法でどのように乗り越えていくのかについて、カミュや優しく力強い励ましの言葉を文学に乗せて我々に届けている。

カミュ文学あるいはフランス文学における試論①(時間性について)

こんにちは。

 

ここ2か月ぐらいフランス文学について理解を深めたいと思い、アルベールカミュの作品を中心に読んでいる。

フランス文学という大きな枠組みを意識しながら、カミュの文学に焦点を当てて少しずつアイディアの断片を書き残せたらと思う。

 

カミュ文学あるいはフランス文学における試論①「時間性について」

フランス文学におけるサルトル「嘔吐」、カミュ「異邦人」サンテグジュペリ「夜間飛行」を基にした際に浮かびあがる特徴として、作品中の時間性があるように思われる。

 

ここ2か月ぐらいフランス文学について理解を深めたいと思い、アルベールカミュの作品を中心に読んでいる。

 

少し連続してフランス文学という大きな枠組みを意識しながら、カミュの文学に焦点を当てて少しずつアイディアの断片を書き残せたらと思う。

 

 

 

カミュ文学あるいはフランス文学における試論①「時間性について」

 

フランス文学におけるサルトル「嘔吐」、カミュ「異邦人」サンテグジュペリ「夜間飛行」を基にした際に浮かびあがる特徴として、作品中の時間性があるように思われる。

 

サルトル「嘔吐」においては、主人公ロカンタンの日記という形式をとりながら、彼が感じる日常生活の違和感(=吐き気を感じる場面)の原因に対する追究が作品の中で叙述されていく。

 

 

カミュ「異邦人」においては、主人公ムルソーが持つ一見論理性のないが彼が信念とする行動が母の死、事件、処刑の日まで淡々と描かれている。

 

 

サンテグジュペリ「夜間飛行」においては、郵便飛行事業に命をかける人々のある一晩のできごとについて登場人物の視点が切り替わりながら描かれている。

 

 

これら、3作品を踏まえたときに現れてくる特徴として、それぞれの作品におけるある種の特別な思想というものが、日常生活と並走して無機質に描かれていることが特徴的であるように思う。いわゆるファンタジーやSF的なある種の完全なフィクションの体をとらない描写が特徴的だ。

 

何か劇的な出来事は、劇的な瞬間に訪れるというのではなく、日常生活の中に落ちているということがあるのかもしれない。

フランス文学とは何かという大きな問いに対して、正対するような答えを出すことは不可能であるが、この「時間性」というキーワードを基にして読みを進めていくことで、新たな発見が生まれてくるかもしれない。

 

長い沈黙からの帰還(近況報告および今後の方向性など)

こんにちは。

 

前回の投稿からしばらくの間ブログの更新が途絶えていました。

こちらは無事生きております。

 

半年ほど、私の身の周りでは多くの出来事がありました。

特に大きかった出来事ととしては、年明けから大学院の入試に向けてフルタイムの仕事をしながら準備をしてきました。

 

今日は大学院の入試(文系)に向けて自分がどのようなことをしたのか、特に研究計画書作成について書き残せればと思います。

 

2025年の年末ごろ、ある大学の大学院入試を受験しようと思い少しずつ準備をし始めました。大まかなスケジュールは以下の通りです。

 

2025年1月

・志望する研究室への研究室訪問

・研究計画書作成に向けての資料収集

 

2025年2月~2025年3月

・先行研究(文献)分析、研究テーマの明確化

・学部時代の指導教官、他大学の博士課程学生と研究テーマに関する検討

 

2025年4月~2025年5月

・募集要項の確認

・志望する研究室の教員との面談その2

・研究計画書の作成

 

2025年6月

・書類作成、諸手続き

・院試(筆記)過去問対策

・口頭試問対策

 

といった流れでした。

 

まだ、受験の結果についてわかりませんが、準備段階において一番の難関であったところは「フルタイムの仕事をしながらいかにして研究計画書を作成するか」というところでした。

 

研究計画書の作成においては、どちらかといえば書く時間よりも先行文献を探して読むことに多くの時間を費やしました。私の研究テーマは日本語での研究や先行研究自体があまり多くなかったため、文献を探すことが難しかったです。

 

研究計画書については、まずChatGPTでひな形を作成してから、12回ほど書き直して推敲を重ねました。

 

研究計画書を書く上で意識したことは主に2点です。

1点目は、先行研究において何が明らかになっており(評価点)、何が明らかになっていないのか(課題点)を記述することです。

2点目は、自分の研究テーマおいて扱うジャーゴン(専門用語)の定義づけに関して明確に答えられるようにしておくことです。

 

研究計画書を書く上で参考にしたのは、阿部幸大氏の『まったく新しいアカデミックライティングの教科書』を参考にしました。

 

 

作成した研究計画書を大学学部時代の恩師や博士課程に在籍する友人に見せ、オンライン上で研究計画書に関する疑問点や課題点を挙げてもらうということも執筆と同時におこなっていました。

 

当日の口頭試問においても研究計画書に関して、研究手法や被験者設定の理由、この研究の限界点(課題点)についてかなり多くの質問をされました。

 

結果はどのようになるかわかりませんが、今は待つことしかできません。

またご報告できればと思います。

 

これからはまたいつも通りの投稿がしていきます。

現在関心がある方向性としては

・言語間転移に関する研究

言語学習におけるストラテジー研究

・応用認知言語学

・フランス文学の特異性に関する研究(主にカミュを基にしながらのアプローチを考えています。)

・悪口やヘイトスピーチ、適切な言語使用に関する研究(ハーマンカぺレン、和泉悠、オースティンなど)

・モンタギュー文法や理論言語学形式意味論に関する研究

デュルケームの社会分業論

 

などを少しずつ読み、発信していければと思います。

 

気長にどうぞ、よろしくお願いいたします。

最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。

ここ数年はこれからの寿命の何年分

こんにちは。

 

また久しぶりの投稿になってしまった。

最近はまさに「働いているとなぜ本が読めなくなるのか」状態の日々が続いている。

(言うて私もまだこの本を読んでいない(笑))

 

さて、今日は本の話ではない。

 

最近、本当に大きな壁にぶち当たっている。私の人生の使命というか大義として成したいこと、押し寄せてくる仕事、ダメージが蓄積される心身、金、他人の思いが目まぐるしく重なり合いぶつかり合う日々が続いている。

 

思えば、ここ数年身の周りでは大きな変化が多かった。フルタイムの仕事を始めたり、身内が亡くなったり、一年に何度も体調を崩したりということがあった。

 

この数年間で過ごしてきた日々、脳や体に刻み込まれた感覚、疲労は間違いなく、もとよりあった寿命を削るに値すると思う。

 

長いといわれている人生も自分が思っているほど長くないのだろう。