探究人間のいろいろ。

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言葉が追いつかない感覚

こんにちは。

 

認知行動療法(いわゆるカウンセリング)やコンサルティング、日記をつけることやメモを記録すること、といった営みの目的は自分の気持ちを他者や事物を媒介して言語として生産することである。

 

上記の活動を経て、人々が思うことは、「自分はこんな気持ちだったんだ」とか自分の気持ちの機微に気づくということだろう。

 

私自身、自らの思いや考えは先行するが言語化することができず、他の新たな情報に押し流されてしまうことがよくある。特に10代のころの私は奇天烈な経験は多くあったが自分の「言葉」が乏しかった。それで、非常に歯がゆい思いをし続けていた。20代になってから本格的に学習を始め、それでも少しずつ自らの思いや考えを言葉という形で残せるようになってきた。

 

おそらく、私の周りには言葉にできない気持ちを抱えたまま、ただ物理的にも比喩的にも「叫ぶ」という行為でしのいでいる人々が多い。私は経験の刹那に感じている人々の思いに言葉が乗っかるような刺激を与えたい。