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日本人訳者2人のグレートギャッツビー翻訳比較 ~第4章におけるドライブシーンに焦点を当てて~

はじめに

 本稿の目的はアメリカの1920年代、すなわち「アメリカンドリーム」をテーマにフィッツジェラルドが描いた作品「グレートギャッツビー」における翻訳比較を行い、海外文学作品の時代背景の描写方法、文学翻訳について考察を行うものである。翻訳比較として取り上げる訳者は野崎孝氏、村上春樹氏の2人の翻訳作品を扱うこととする。また、取り上げる場面としては第4章の序盤、物語の語り手として描かれるニックと大富豪であるギャッツビーが2人でドライブに出かけるシーンが描写される。この場面を取り上げた理由として物語の中でギャッツビーはかつての恋人であるディズィを取り戻すという狙いの下でニックに近寄るギャツビーだが、ギャッツビーとニックの間にはじめて友情が芽生えるシーンだと考えられるからだ。加えてこの場面で初めてギャツビーとニックが2人きりで会話をおこなう。

翻訳比較

 以下に引用するのは第四章、ギャツビーとニックがドライブをするシーンで2人の会話を原書、野崎訳、村上訳の順に並べたものである。

・「Good morning, old sport. You’re having lunch with me today and I thought we’d ride up together」

・「It’s pretty, isn’t it, old sport?」「Haven’t you ever seen it before?」

・「Look here, old sport」「What’s your opinion of me, anyhow?」「Well, I’m going to tell you something about my life」

・「I don’t want you to get a wrong idea of me from all these stories you hear」

・「I’ll tell you God’s truth」

(penguin essentials p67-68 一部)

 

・「おはよう、親友。今日はひとつ昼食を付き合ってくださいませんか。ニューヨークまでごいっしょいたしましょう。」

・「きれいでしょう、親友」「まえにごらんになったことがなかったですかな?」

・「あのね、親友。あなたはいったい僕をどう思います?」「わたしはあなたにわたしの過去をすこしお話ししようと思うんですよ。」

・「いろいろな噂をお聞きになっておられると思うんですが、そんなことからわたしというものをあなたに誤解して頂きたくないんです。」

・「神の御名に懸けて真実を語りますよ」

新潮文庫p103-105)

 

・「おはよう、オールド・スポート。我々は今日、昼食を一緒にすることになっているわけだが、ついでだから一緒に街まで車で行かないかと思ってね」

・「なかなかきれいな車でしょう、オールド・スポート!」「これを見たのは、君は初めてでしたっけね?」

・「ところでね、オールド・スポート」「私のことをどう思っているか、聞かせてもらえないかな」「私の人生について、君にいくらか話しておきたいんだ」

・「よそから私についてのいろんな噂話が入ってきて、君に誤った思いを抱いてほしくないから」

・「君には神かけて真実を話そう」

中央公論新社 p120-122)

 

 こうして原文、野崎訳そして村上訳と比較した際に注目すべき箇所が3点あると考えられる。1つ目は「old sport」をどのように訳したのかということ、2つ目はニックを相手にした際のギャツビーの語尾をどのように翻訳しているのかということ、そして3つ目は両者の本作品における捉え方の違い、及び文体についてどのような差異があるのかということの3点だ。

 1つ目の「old sport」の翻訳に関して野崎氏は「親友」と訳している。一方で村上氏は「オールド・スポート」と日本語の訳をあてていない。これに関して野崎氏は直接的な言及はしていない。これに対して村上氏は訳者あとがきで「…しかし適当な訳語はとうとう見つからなかった。ご理解頂きたいのだが、僕はこのold sport 問題について、もう二十年以上にわたって…考えてきたのだ。…これはもうオールド・ポートと訳する以外に道はない」(中央公論新社、p354)と述べ、続けて「…もちろんこの言葉が些細な場面で一時的に使われているのであれば、適当な訳しようはいくらでもある。…作品中の重要なキーワードとして使われている以上そのままのかたちを残す以外に手はなかった」と述べている。

 2つ目のギャツビーのそれぞれのセリフの語尾を両者がどのように翻訳をあてているのかに関して、作中で野崎氏はギャツビーのニックに対するセリフは一貫して「○○でしょう」や「○○なんですよ」、「○○です」といった敬体に近い形で統一されている。一方で村上訳では「○○かな」、「○○たっけね」や「○○から」と言い切らない形で会話が終了するといった比較的に砕けた会話体が用いられている。

 3つ目の本作品における両者の捉え方、および文体の違いについてだ。野崎氏は作中について翻訳に関する言及をしていない。しかしながら作品に関して「…こうして作者が、分裂しながら互いに牽引し競合し反応し合う内面の二要素を、それぞれの二人の分身に仮託し、一方を語り手として設定したところにこの小説の成功の大きな要因があることは、多くの評者が一様に言っている通りである。…」(新潮社 p306)と述べ、「いずれにしろ、…依然として価値観の混乱を見ている現在の日本の方が、あるいはこの作品を鑑賞するのには都合のよい条件を備えていると言えるかもしれない」(新潮社 p311)と言及している。蛇足であるがこの野崎氏の解説は1974年5月に書かれたものである。村上氏は「グレートギャッツビーは僕にとって極めて重要な意味を持つ作品だから、翻訳するからにはここ残りのない、緻密で丁寧な仕事がしたかった。…」(中央公論新社 p328)と述べ、さらに「…翻訳というものには多かれ少なかれ賞味期限というものがある。…翻訳というのは、詰まるところ言語技術の問題であり、技術は細部から古びていくものだからだ。」(中央公論新社 p331)、「…今回の僕のグレーとギャツビーの翻訳は、きわめて個人的なレベルでなされたものなのだ、と考えていいかもしれない。…」と言及している。この村上氏のあとがきは2006年9月に書かれたものである。

 

考察

 これまでまとめた3つの論点に関してそれぞれ考察をおこなっていきたい。一つ目の「old sport」問題に関して、根底にあるのは忠実な翻訳にこだわった結果と言えるのではないか。野崎氏は固有名詞や外来語に由来する行為を示す言葉(例「ドライヴ」等)以外は極力日本語に訳すこと、つまり忠実な日本語訳を用いギャッツビー、及び作品を描写するということに取り組んだのではないだろうか。これは翻訳が出版されたのが1974年といった現代ほどの情報網が発達していなかったことによりそうせざるを得なかったのではないかという推測に起因する。一方で村上氏が「オールド・スポート」と敢えて翻訳を行わなかったことに関してはあとがきで述べられているようにこの翻訳をすることにより作品の世界観に影響を与えてしまうということを理由に彼もまた村上氏がグレートギャツビーという作品を彼なりに忠実に日本語で描写しようとした結果なのではないだろうか。

 2つ目のギャッツビーの語尾が両者によって敬体であったり、会話調体であったりするということに関して、翻訳がなされた訳者の「クセ」および、好みの違いがあるのではないかと考えられる。野崎訳の場合には解説でも触れられているようにギャツビーとニックの対称性を描写するものとして、ギャツビーがニックに対し常に敬語体の文章で話しているのではないだろうか。言い換えれば二人の距離感であったり差異を描写するためだったのではないかとも受け取ることが出来る。反対に村上訳の場合にはギャツビーとニック間の距離感を少し近いものとして描写するために会話調体の文章にしたのではないかと考えられる。また、村上氏が主張するフィッツジェラルドの原文が持つ「流れるような文体」を表現する技法として「会話の流暢さの描写」をおこなった意図も可能性として考えられる。

 3つ目の本作品における両者の捉え方、及び文体の違いに関して、大きなポイントとなるのは野崎訳と村上訳が出版された間に約30年の時間差があったことが挙げられるのではないか。野崎訳は先にも記述した通り1970年代に出版されているため、本稿が書かれている現在(2021年)と原書が出版された1920年代と比べると約50年の時代間隔がある。この時間差から野崎訳は文章はある意味ではニュートラルさを持つ文体となっていおり、1970年代の日本の価値観もパッキングされた状態で翻訳がなされているのではないか。一方、村上訳は2006年に出版された。したがって比較的に現代に近い言葉遣いに文体が調節されている。訳者自身が「翻訳は持つ賞味期限を持つ」(中央公論新社 p331)と主張するように加工品として原作に現代の空気感をまとわせた結果、両者の文体という表面上の翻訳の違いにおいては差異が見られると考えられる。

おわりに

 本稿ではグレートギャツビーの第4章における原書、野崎訳、村上訳の翻訳を比較することにより海外文学作品の翻訳について考察をおこなった。原書の時代背景と翻訳が行われた時代及びグレートギャツビー作品における訳者の捉え方により細かな部分で違いがみられ、両者ともに重要と考える場面が微妙に異なるということも垣間見ることが出来た。今回は第4章のみを取り上げたが他の章に目を向ければ新たな発見もあると考えられる。加えて、他の文学作品において野崎氏と村上氏が翻訳を手掛けた文章がどのように異なるのかを比較することもまた海外文学作品の翻訳の技術を探る手掛かりになりうると言えよう。

 

〈参考文献〉

・F. Scott Fitz Gerald 『The Great Gatsby』penguin essentials 、2011

フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』(野崎孝訳)新潮社、1974

スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』(村上春樹訳)中央公論新社、2006