探究人間のいろいろ。

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多様性を取り戻せ

こんにちは。

 

天気があまり良くなく、気分もあがらない日々が続きます。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、昨日半年ほどかけて読んでいたミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』を読み終えました。これで、彼の著作を読んだのは『狂気の歴史』を含めて2冊目になります。

 

 

 

さて、フーコーは自分自身を”ポストモダンの哲学者”と呼ばれることを嫌い、”日常の観察者”であると称していました。


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そんな彼の著作は、非常に長く、読みづらく悪文として名高いですが、現代人である私たちの身近な事象を圧倒的な参考文献に裏打ちされた分析で記述しています。

 

特に、彼の処女作である『狂気の歴史』では、中世の時代から現代にかけて、いわゆる「狂った人々」を社会的がどのように定義づけ、扱ってきたのかについて分析されています。また、『監獄の誕生』では、現代社会におけるある一定の権力の下で権力者の意図した道徳的規範が、いかにして我々の個人内で生成されるのかについて分析しています。それぞれの本の内容についてはあまりにも有名なため、内容解説はYouTubeにある優れた解説を参照されたいと思います。

 

さて、前置きが長くなりました。

現代社会ではSOGI(Sexial Orign and Gender Identity)やインクルーシブ教育、ヘイトスピーチ規制法、人々の精神疾患への理解が深まる、などなど「多様性」というものがキーワードとなってきています。皆さんの中での自分と社会の関係性、他者と自分との関係性、個人と集団の関係性という視点が複雑に絡み合ってい日々の生活が営まれているということは言うまでもありません。時々、多様性を尊重するあまり、「これはわがままではないのか」と葛藤する場面もあるかと思います。

 

多様性という言葉は出てきませんが、フーコーは『狂気の歴史』の第一章末でこのように論をまとめます。

十七世紀初頭のこうした世界は、不思議なほど狂気を大切に保護している。そこでは、事物や人間にとりかこまれて、狂気は、真なるものと空想的なものの目印をごちゃごちゃに混ぜかえす皮肉な徴表であって、大いなる悲劇的な威嚇の思い出をほとんど残してはいない…p.59

 

この章では、現代社会以前において、「狂気」というものが社会的に、神聖なものとして尊重され、保護されてきたのかについて記述されており、上記の文はそのまとめとなります。

 

近代、および現代の中では狂気の人々を理性とは対極のいわゆる「普通ではない人」として社会全体が扱い、一度社会から物理的に隔離しようとする動きがあったとフーコーは第二章で考察しています。その後の章で、物理的に狂気の人々を隔離することの限界と社会的損失についても記述されていますが、長くなるので割愛します。興味のある方はご一読ください。

 

さて、こう言った狂気の人々が「普通ではない人」と判断される規準はどのように生成されたのでしょうか。ここで、『監獄の誕生』を併せて読んでいくとわかりやすくなっていきます。

 

「監獄の誕生」ではこの社会全体が抱く「普通」の規準は個人内の中に学校や病院ありとあらゆる日常の場面で幼少期から刷り込まれていくと記述されています。いつ、何を、どのように行うべきなのかが手順化され、それに従順な者は称賛されます。従順な者は集団の規範となり、皆がそれを目指すようになると述べています。

 

フーコーのこういった著作の出版は1970年代から出てきています。フーコーに限らずですが、現代社会における多様性や個人の尊重といったいわゆる人権に関する議論は先人たちが莫大な考察、分析をしてきています。

 

これに対し、我々はどのように今を生きていくべきなのでしょうか。私にはまだ、答えが出ませんが、こういった古典を読みながら目の前にいる、「読者」ではなく「あなた」に対して前例なく真摯に向き合うという態度で臨みます。

 

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ここまでだらだらと文章を書いてきました。なおかつ、探究人間独自の解釈もあるため、このブログ記事の読者の皆様には、本書2冊をお読みいただきたいです。『狂気の歴史』は読みづらいですが『監獄の誕生』比較的に我々の身近な話をしているので読みやすいかと思われます。

 

では、また。