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新フロイト派の系譜を辿る

 こんにちは。

 

 先日、講談社学術文庫から上梓されたハリースタック・サリヴァンの「個性という幻想」を読み終えた。サリヴァンは1892年2月21日にアイルランド系移民2世の両親の元に生まれた。出身はニューヨーク州シェナンゴ郡である。サリヴァン自身は幼少期からあまり対人関係構築が得意ではなかったらしい。また、彼は当時同性愛者ということもあり1950年代には忌み嫌われる存在であったという。

 

 サリヴァンの代表的な主張は、人間同士の差異(個人)よりも人間同士を結びつけているもの(場)に着目することが重要だということである。本のタイトルにもあるように「個性という幻想」という彼の主張は若干過激に思われるが、本書の中には、いわゆる精神病患者と精神科医、社会との関係性についての詳細な考察が記されている点や、「不安」というテーマについても考察されている点がこの本の重要な内容である。

 

 というざっくりとしたこの本の概要だが、気づけば最近自分がいわゆる新フロイト派系(フロイト左派)の書籍をよく読んでいることに気づいた。それは必然的な出来事であるか否かはよく分からないが、少なからず今の自分の社会に対する問題意識と共通項があるのだろう。その共通項とは「不安」である。

 

 サリヴァンは『個性という幻想』の中で不安と恐怖を対比させて考察し、不安の特質性について分析している。

 エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で人々が積極的な自由の中に放り出されてた時の人間の心理を描写し宗教的、社会集団的な側面の理由から限定的な自由に帰結するまで過程を分析している。

 ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』や『それでも人生にYesと言う』の中では収容所での極限状態の中で不安が人々をどのように支配するのかや漠然とした先の見えない不安にどのように対峙するかについて分析している。

 

 以上のことを踏まえ、私が考えたのは不釣り合いな共有財産としての不安である。私たちの抱える不安感は何者か若しくは環境によって掌握された、不安であるということだ。例えば、可視化された能力や健康状態、形骸化して残る伝統やマナー、人や物事に対する何となくの印象の蔓延といったものである。自分の中に不安感が内在しているかのように思われるが、実は他者と自己同士で見えない不安を共有し慰め合い、肥大化させ悪化させている場合があるのではないかと思われる。ただ、不釣り合いな共有財産としての不安が2020年以降の人間の発達段階におけるどのような場面で生成され強化されているのか私自身が十分に分析する必要がある。これにより、公教育において重要な情操教育の内容や指針を明らかにできるかもしれない。

 

 もちろん、この私の考えは論の飛躍があるように思われるが、記録として書き記しておく。

 

 最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。